モンスタースポーツはスズキスポーツ時代から、JWRC(ジュニア世界ラリー選手権)をはじめとしたモータースポーツからストリートまで、スイフトとともに駆け抜けてきました。その軌跡を綴ってゆく新連載が「SWIFT with MONSTER」第1回はスズキスポーツの全日本ダートトライアル/全日本ラリー活動で数多の勝利を挙げ、スズキJWRC活動ではワークスチーム監督を務めたスズキスポーツの生き証人「粟津原豊」が登場します。
- 粟津原 豊 (モンスタースポーツ チーフエンジニア/スズキJWRC チーム監督)
- スズキJWRC チーム監督として、スイフトを2度の世界タイトルに導く。自身もラリー/ダートトライアルの競技で活躍。全日本ダートトライアルのチャンピオンを12年連続で獲得し、同時期に全日本ラリーでも9回のチャンピオンを獲得。全日本ラリー、ダートトライアルのダブルチャンピオンが実に8回。この記録は今なお破られていない。
- 【モンスタースポーツの前身、「スズキスポーツ」のはじまり】
- -まずモンスタースポーツの前身となったスズキスポーツってありましたよね?このスズキスポーツはどういうきっかけでスタートしたのですか?
「1986年5月、ずいぶん前の話なのですが、スズキさんは二輪が非常に人気でしたが、二輪のユーザーの若い世代を何とか四輪にという企画の中で、1300ccのツインカム16バルブという当時最先端の(クラス)最高馬力の車両「カルタスGT-i」を作られて、その車を世に出すにあたり創られた会社です。
-そしてその「カルタスGT-i 1300ツインカム」、それはまず、どういったシーンで活躍したのですか?
「日本国内のカテゴリーでは、全日本ラリー、全日本ダートトライアル、全日本ジムカーナ、サーキットレース、参戦したクラス全てでデビューウインから始まって、ずっと活躍をさせてもらいました。」
-当時のライバルはどんな車種があるのでしょうか?
「ダートトライアルですと最初のうちは「EP71スターレット」、のちには「GAシティ」あたりがライバルでしたね。」
- 【スズキスポーツのエースドライバー、粟津原豊】
- -そんな中、粟津原さんはドライバーとして印象に残っていますが、全日本ダートトライアルは結局何回勝ったのでしたっけ?チャンピオンになったのが確か12回。
「全日本ダートトライアル選手権では12年連続の全日本チャンピオンを取らせてもらいました。」
-それとラリーでも活躍しましたよね?
「そうですね、同じ時期に全日本ラリーと全日本ダートトライアルの両方に参戦させてもらっていまして、ラリーは9回チャンピオンですね。」
-その時車は「カルタス」だったり、あとは「アルトワークス」もありましたね?
「そうですね。ラリーは「アルトワークス」をずっと使っていたのですけれど、ダートラは「カルタス」だったり「アルトワークス」だったり、そういう形で走らせてもらっていました。」
- 【当時のスズキ車のスポーツグレード】
- -スズキの車のスポーツグレード、他のメーカーの車と比べて、当時良い所も悪い所もあったと思うのですが、良い所は?
「エンジンですね。エンジンのパワー、レスポンス、取り扱いやすさ。低回転から高回転まで、非常にトルクフルで、ダートラでも、ラリーでも、どこの競技に行っても最強のエンジンでしたね。」
-やっぱりそれは、(スズキが)元々がバイクメーカーだったという事に関係あるんですか?
「そうですね。その一言だと思います。車体の方もそうですね。二代目では前後ストラットの四輪独立になって、最先端をいっていました。さらにこちらもクラス唯一の四駆も発売されて、ダートトライアルでは、カルタスしか勝てなかった。そんな車でしたね。 エンジン、サスペンション、駆動系、全てに於いて最先端を行っていましたね。」
-そこにスズキスポーツが更にチューニングを加えたっていう事ですね。
「そうですね。レギュレーションの範囲でサスペンション、LSDなどの駆動系、あとはボディの補強等の改造を施して、お客様にそれを購入していただいて、お客様と共にイベントに出るという事をやっていました。」
-じゃあワークスドライバーとしての粟津原さんがいて、その他にスズキスポーツのチューニングを受けた一般の方も、たくさん競技を行ったという事ですか?
「そうですね。スズキスポーツとしても商品開発をしていて、その商品を使って、お客様と同じ物を使って走るのが、スズキスポーツのポリシーでしたので、同じ物を販売させていただいて、みんなで走るという事をやっていました。」
-そうやって作った車、実際に粟津原さんが使って戦っていたパーツを一般ユーザーにも出していたんですよね?それって画期的な事じゃないですか?まず粟津原さんが勝つ。それを見たお客様がスズキスポーツにやって来る。そのお客様も勝つ。どんどん良い方向に進んで行ったのが、当時のスズキスポーツだったんですね。
- 【スズキスポーツ、世界への挑戦:パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム(アメリカ)】
- -そして、その後ついに世界と戦う事になりましたね。最初に世界に出て行ったきっかけは、どんな所だったんでしょうか?記憶にある所だとパイクスピークっていうのがありましたよね?
「パイクスピークに関しても田嶋選手(モンスター田嶋)がスズキスポーツとしてずっと参戦していました。」
-エンジンのパワーが少なくてという所からツインエンジンを作ってみたり。アメリカのライバルは5リッターV8とか、そういう世界ですもんね。
「(当時の)スズキは最大排気量のエンジンが1.3リッターでしたから。」
-1.3で立ち向かうために、だからエンジンを2基つけたツインエンジン?今考えても画期的ですが。
「それで結果を出したのが、私共の車だけなので。同じような車は走っていましたが、優勝したのは私共の車だけだと思います。」
-それもスズキスポーツの社内で設計・製作を行ったのですか?
「そうですね、全て。」
-改めてすごいですね。
「長くやっていますので、色んな事をやってきています。」 - 【スズキスポーツ、世界への挑戦:JWRC(ジュニア世界ラリー選手権) 2002年- スイフトスーパー1600(HT系)のデビュー】
- -そしていよいよ「JWRC」「WRC」と進んで行くわけなんですが、粟津原さんは「JWRC(ジュニア世界ラリー選手権)」の時は、ワークスチーム監督をされていましたね?
「最初の頃は国内にいましたので、監督はやっていませんでしたが、最後3年位は現地で監督をさせてもらって、大変でしたね。やはり勝たなければいけないという中で結果を出すというのが、ラリーは中々思うようにいかなかったのですが、結果としてで年間チャンピオンを2回取らせて頂きました。実際には3回取れたのでは、という話もありましたが...」
-「JWRC」全体の中ではスズキは3回チャンピオンになっていて、粟津原さんがコントロールするようになってから2回チャンピオンになっています。まず最初に日本では「HT81S」型と言われる、ちょっと背の高いスイフトで参戦を始めました。最初の頃はいかがでしたか?
「最初はやはり車が壊れましたよね。国内でしっかりテストしても、向こう(ヨーロッパ)に行くと、耐久性の面で色んな物が壊れて、完走出来なかったり。それでも、レギュレーション上車を勝手にアップデート出来ない。」
-やっぱりヨーロッパのライバルはその辺強かった?
「ずっとラリーをやっていますからね。ずっとやっている所に初めて行って戦うわけですから、経験不足はどうしてもありましたね。」
-でも「HT」型のスイフトでも勝ちましたよね?
「レギュレーション上を改善できるところを直して耐久性も出す事が出来たし、仕様もかなり変更する事で勝てるようになりました。」 -
遂に力を見せ始めたイグニス。スズキJWRC黄金時代へと物語は進みます